(追記部分含めると、約1800字)
…という不思議なニュースを今日サウナで見て、「ほええ?」となるとともに、『Echo』という短編を思い出した。
第二部『Farside』の9/10篇目、全体ラストの一つ手前の短編。
砂浜で波に洗われている不思議な箱が実は巨大知性体エコーで、子どものこんにちはに対してこんにちはって返してくれる、というお話。
これをついさっき読み返しました。
何かレビュー書けるかなと思って日記をつけてみたけど、ダメだ、いまいち言語化がうまくいかないや。今度気が向いたら追記します。
ただ、アレですね。正にこう、(サウナにせよ何にせよ)ほっと一息ついて、少しだけ日常から距離とったところで読み返すと沁みてくる小品ですね。
『ただ入り組んだだけのこんにちはの挨拶』があって、そして『何かが通じてしまってい』て*1、子どもたちがこんにちはを返す、っていう構図とか。
沁みてきて、ホッとします。
まぁ、浜松のアレはもちろん散文的な代物で(笑)、僕がサウナで見たテレビによれば、南のほうの漁業関係者の方が使うブイの一種ではないか、とのことでしたが。
*(2/24追記)
再び読み直した。やっぱり良い。特にラストシーン間際、p333-335のワンパッセージがすごくいい。
すごくいいんだけど、この短編、というかSelf-Reference ENGINEの短編全部(何なら円城塔さんの小説ぜんぶ…って全部は言い過ぎか、さすがに)、筋を要約して説明するのがめっちゃ難しいんですよね。*2
えーと。
巨大知性体エコーは元人間で、3回(実質4回?)ノーベル賞を受賞したという設定のとんでもない異能者なのだが、他方で、ナイフとフォークで食事をしたい、両手で恋人を抱きしめたい、ピアノを弾きたいと述べる人間らしい側面も同時に描かれている(そして、自身の失った両手を、あっけなく(あっけないように読める感じで)生体融合技術を用いて自作する 笑)。*3
そんな人物が『立方体をした非晶質金属体』、すなわち巨大知性体として『自分をリプレースした』上で沈思黙考みたいな状態に入った、その現在の内面が詩的な形で綴られている短編です。*4
人間の言葉では語り得ず、人間の思考では思考し得ない事柄を思考すべく、エコーは、知識欲に基づき、自身を適宜の構造物として再編した。*5
しかし今、自分は今、もう一度、誰かへ伸ばせる両手を作り、自身の内面を喚いてみようと考えているのだ、と。*6
好んでそうしたのとはちょっと違うが、少なくとも結果として自閉に近い状態にあって、それに特に不満も覚えなかった人(?)が、自分なりのやり方で、再び外の世界に対し、自身を開き出そうとしている。
そういう感じの心境・思考が、過去を後悔しているようなふうでもなく、淡々と、かすかな抑揚だけが伝わるような形で書かれています。そこが共感するし、沁みるんですよ。沁みるっていうの今日三回目ですけど 笑
我が身振り返って言いますけど、自分の内面に従って生きてる限り、多かれ少なかれ内に閉じざるを得ない部分はあると思うんですよ。敢えてそうしようと自虐的に望むのではないにせよ、なんで自分がこうなったのか、他人に説明しようとしてもできない部分なんて山ほどあるというか、むしろそちらの方が多い。
別にそれはそれで構わない、安心できる人間関係を求めてるわけでもないし、相互理解に夢を見たいわけでもない。
何かに強いられて人とつながるなんて真っ平だ。
ただ自分は、自分がそうしたいから手を伸ばすのだ、例えばピアノを弾くように。*7
…ああ、共感できるなぁ。
って、自分で自分が共感できるふうに自分の解釈書いてるんだから、当たり前ですね 笑